日常茶飯本

“暮らしの本”愛好家の日記

小学校入学に不安を抱える、すべての人へ。/『学校と一緒に安心して子どもを育てる本』

学校と一緒に安心して子どもを育てる本: 小学生保護者の心得 (教育単行本)

学校と一緒に安心して子どもを育てる本: 小学生保護者の心得 (教育単行本)

 

「自分らしく生きること」と「世界と調和すること」の狭間で。

久々の、ブログ更新です。

2017年は、少しずつですが、仕事を再開したり、縁あって茶道を習い始めたりと、新たな出来事が多々あり、なかなか更新することができませんでした。ですが、その間にもまた、たくさんの良書との出会いがあり、この春からは、また少しずつ、大切な本について綴っていけたらいいな、と思っています。

 

さて、今回の本。私がこれまでに人に勧めたなかでも、「この本を読んで良かった!」という声を、非常に多く返したもらえた本です。

 

この本の何が良いかというと、ともかく「現実的」ということに尽きます。

子どもの小学校生活で起こりうる、あらゆる事例に対して、「こういうときは、こうする」という、実際に困った時に(その多くは即効性を持って)役立つという方法が、あますところなく書かれています。そして、その方法には血肉が通っており、通りいっぺんのものは一つとして(!)ないと言っていいのでは、と、一読した時に感じました。そして、表紙にもある通り、この本は私にとっても、“バイブル”の一冊として、何か気になることがあるたびに、何度も読み返しています。

 

まず、初めにはっとしたのは、p5の「先生の当たりはずれ」についての記述です。

「先生の当たりはずれという言葉をときどき耳にします。(中略)もちろんご自分のお子さんが先生からつらい目に遭わされていたり、困っているのに何も助けてくれなかったりすれば、はずれの先生だと思うことでしょう。しかし、それほどひどいことを直接されるわけでもないとしたら、みなさんは先生の良し悪しを何で評価されるのでしょうか。(中略)本当に自分の子どもにとって良い先生のなのかではなく、感覚的な好き嫌いだけで判断していませんか?

たしかに、そういう部分があるな、と。日頃、どれだけ自分サイズの物差しで、人や物事を認知しているかを指摘されたような気がしました。

 

また、すごいな、と、その対応の見事さに舌を巻いたのは、p127〜128の子供が学校でたたかれたり、暴力を受けている時に、学校にどうはたらきかけるのか、という相談の答えでした。これが圧巻で、ここを知れるだけでも、この本を読む価値は十分にある、と思えます。

 

勉強面に関しても、多くのヒントが散りばめられています。たとえば一年生の算数のところで、繰り上がりと繰り下がりの計算の数は、それぞれ36個しかない、だから反復練習して暗記してしまう、など、なるほど!というアドバイスがいくつもあり、これらを主に知りたい、と思う読者にも、しっかり答えています。

 

そして、最も重みを感じた箇所。それは、p103〜の発達障がいの子どもたちへの対応の章でした。p114〜115には、こうあります。「立ち歩いたり声をあげたりすることは、その子がその子らしい特性を発揮していることでもあります。自分が自分らしく振る舞うと叱られたり注意されたりするということは、自分自身を否定されていることになります。」

衝撃でした。

ここに書かれていることを考えることは、小学校という場の話だけではなく、誰にとってもごく身近な、それこそ家庭や職場、地域や近所付き合いなどを考える上でも、避けては通れないことではないかと。あらゆるコミュニティの中で、どう生きて行くか、に繋がっていくことのように思えました。

 

程度の差はあれども、私たちは、周りの人との関係の中で「自分らしく生きること」と、「自分が生きる世界に(なんとか)調和すること」との狭間で揺れ動いています。そして、誰しも否定されずに、生きる権利があるのだと、そのことを忘れないようにしたい、と思いました。うまくやれない時があるとしても。たゆまずに。

 

今日は、明日(書いているうちに、日にちが変わってしまいましたが)、子どもが小学校入学を迎える友人2人が、家に遊びに来てくれました。うち1人には、以前この本を紹介しており、もう1人にもまた、この本を交えて、話をしました。

 

あとがきにも「この本を読んで、子育ての不安が少しでもなくなってくだされば」との作者の言葉がありますが、その通りの、とてもあたたかな本です。

 

自分が「良いな」と心から思える本を、そしてその想いを、誰かにバトンできたとき、私は「本があって、本当によかったな」と、いつも思います。そして、それがまた、次なる本への出会いを、呼び寄せてくれているようにも。

 

この春、入学する子を持つ、すべての方に贈りたいなと思える、そんな本です。

日々のごはん作りが、楽になるお話。/暮しの手帖 4世紀83号

暮しの手帖 4世紀83号

暮しの手帖 4世紀83号

 

和食の原点=「汁飯香」とは?

朝ドラ効果もあって、今まさに注目を浴びている『暮しの手帖』ですが、本誌の方は、相変わらずひたむきに、丁寧に紙面を作られていて、ページをめくる度ほっとします。やはり、得難い雑誌です。

 

今号は、土井善晴さんの「汁飯香(しるめしこう)」のお話がとても印象に残り、久しぶりにブログを綴りたくなりました。

そして、昨日家に遊びに来てくれた友人が、偶然にも同じ記事を読んでいて、「何度も読み返した」と聞き、きっと多くの人の琴線にふれる内容だということに、あらためて思いあたったからです。

 

各々の家庭で、日常の食事の献立というのは数多のバリエーションがあると思います。この記事では、日々の食事の基本は、「一汁一菜」で良い、ということ。そして、その理由について、土井善晴さんがご自身の哲学を語られます。

 

聞き手は編集長の澤田康彦さん。澤田編集長からの、問いかけのなめらかさ、それに一つひとつ、はっとするような答えを返していく土井さん。そのやりとりが、息の合ったキャッチボールのようで、読みながら何度も、「たしかに!」「そうそう…」と噛み締めながら読んだ次第です。

 

「まずみなさん『料理は大変!』というふうに思い込みすぎだと私は思うんです」…まずは、この言葉に深く納得。続けて読んでいくと、戦後、理想の献立とされてきた、いわゆる「一汁三菜」ではなく、さらにその前にさかのぼった「一汁一菜」、つまり「味噌汁とご飯、プラス漬け物」という和食の原点に、いったん立ち返りませんか、という提案がなされます。

 

「毎回一汁三菜を用意するのって、冷静に考えてみれば、大変なことなんです。」

「毎日『おいしいおかず』を期待されてしまうと苦しくなってきます。できないって降参する人、ごまかす人、気持ちも体も不健康になってしまう人もいる。本当はちゃんとしたい、丁寧に、美しく生きたい……っていうことが、みんなの憧れであることは間違いないんですが。

この言葉に対して編集長は、

「その憧れが逆にストレスにもなるわけですね。みんなきちんとしていたいから。」と受けとめます。そしてまた土井さんは、

「やっぱり人間っていうのは、正しくあることで幸せになれるということを無意識のうちに知っているんでしょう。(中略)おいしさはきちんと確保された上で、大事な時間が短縮できるという両方が満たされていないと本当の解決にはならないと思うんです。」と。この言葉が私にとっては、記事の個人的なハイライトでした。

 

言われてみれば、「料理は大変」…そういう思い込みはたしかにあるなと素直に思いました。そして、この記事が響くということは、冒頭で少しふれた友人もまた、そのうちの一人なのかなと。そして、似た想いを抱えた人たちが、実はたくさんいるのだろうなと想像できたのです。そんな気付きがあって、そして、そういう状況を言葉にして見せてくれたことに、はっとした文章でした。

 

このあとは、具体的においしいごはんの炊き方について語られていきます。お米を研いで、ざるにあげて、「吸水40分」して炊く、というごくシンプルな方法なのですが、たとえば時間のない朝のご飯に、どうすればその40分のハードルを超えられるか、などの具体的な方法についてもふれられ、その細やかな工夫に、またまた膝を打ちました。

実際、この「洗い米」でご飯を炊いてみたら、ほんとにおいしい。

続く味噌汁の作り方にも丁寧な解説があり、それがまた、読んでいて、とってもおいしそう。土井さんが話す関西弁のリズムにのって、ナスにオクラに、カボチャの味噌汁が次々と目に浮かび、うん、冷蔵庫にあるもので、何か作ってみよう。と、その気になってしまいました。なんとも気楽に。

 

人間というのは面白いもんで、余裕ができるともっと何かつくったろかな、って気になる。この間に、きんぴらごぼうくらい、あるいは卵焼きくらいはつくれるし、イワシくらいは焼けるかなあとかね。」

求めなくても楽しみというものは起こります。普通に愛情のある家やったら小さな楽しみは自動的にやってくるはずなんです。」

こんな風に語られる土井さんは、料理というものを通して、人間の心理もじっくり見てきた人なのだなと思いました。ともかく、ご飯、味噌汁にお漬物があれば、それで基本はOK! あらためてそう考えてみれば、それだけで肩の荷(たぶん、いらない荷物)がおりて、なんだか勇気が出てくるように思えたのでした。

 

そういうわけで、この記事を読んでから、ふと気づけば、小さな変化がありました。

いつもと変わらない日々のごはん作りが、以前より楽になっているように感じられたのです。それはたぶん「一汁一菜が、基本」と思う事で、無意識に入っていた余分な力が抜けて、ほんとに「何かつくったろかな」という気持ちが自然とわいてきたというか。私が乗りやすいだけなのかもしれませんが、これこそが土井善晴さん、ひいては暮しの手帖編集部からの、読者への贈り物だったのかな、と、読んでから数日を経て、あらためて感じるような記事でした。

 

次号からは土井さんの連載が始まるとのこと。新しい知見の「地に足の着いたおいしさ」について読めるのではないかと、今からとても楽しみです。

 

また今号には、特別付録『美しい暮しの手帖』創刊号よりぬき復刻版がついていて、とと姉ちゃんのモチーフとなった大橋鎮子さんの「あとがき」もまた、一心につくりあげた最高の雑誌が出来上がったという、その高揚感が伝わってくる素敵な文章でした。

「ひとが、どんなに生きたかを知ることは、どれほど力づけられ、はげまされるか知れないと思うからです。」その通りだなあ、と。

 

「汁飯香の話」の載った今号は、何度も読み返したい内容に加え、同じ本を友人と分かち合えたということもまた、大切な記憶となりました。たぶん彼女と私では、この記事の好きな部分が、ぴったり重なったというわけではないと思います(ちなみに彼女は、木のおひつについて書かれた部分が印象に残ったそう)。けれども、どこかでつながっている。だから「暮しの手帖の記事、面白かったね!」と話し合えた。その経験がありがたかったのです。

 

同じく今号に載っていた「みらいめがね」の、ヨシタケシンスケさんのキュートなイラストにあった

「…我々はおそらくわかりあうことはできないけれど、わらいあうことならできるのかもネー。」

という言葉、まさにこれを体感できたような気がします。

そして、本棚にずっと置いておきたい本が、また一冊増えたこと。そのことが、とても嬉しい夏の終わりでした。

 

“理想のおうち”を見つける方法。/『やかまし村の子どもたち』

やかまし村の子どもたち (リンドグレーン作品集 (4))

やかまし村の子どもたち (リンドグレーン作品集 (4))

 

「こうして、なにもかも、わたしの棚におさまりました」

 昨年、“お片づけ”をはじめたとき、物を手放す前のステップとして必要だったのが理想のおうちと暮らしを想像する」ということでした。そのイメージの手助けになったのは、私の場合、やはり“物語の中のおうち”。次いで、暮らしまわりの本の写真や文章などでした。

児童文学には素敵なお家や部屋が多々、登場しますが、なかでも真っ先に浮かんだのは『やかまし村の子どもたち』です。

この物語の舞台は北欧・スウェーデン。心ときめくお部屋の描写がどっさり登場し、さすがはIKEA発祥の「インテリアの国」の面目躍如といったところ。

とりわけ好きな一編である「いちばんたのしかった誕生日」のお話には、主人公であるリーサが、“自分だけの部屋”をプレゼントにもらった、7歳の誕生日の心躍る一日が描かれます。

 

「おとうさんは、魔法で壁紙をはってくれたんです。それは、ちっちゃな、ちっちゃな花束がいちめんにかいてある、すごくかわいい壁紙です。それから、おかあさんは、魔法をつかって、窓のカーテンをつくってくれたんです」

リーサの父さんは、他にも棚やたんす、テーブルと、椅子を3つ手作りしてくれ、母さんは余り布を織りまぜたじゅうたんを(いずれも“魔法”で!)作ってくれます。そしてリーサは「これ、魔法つかいがやってくれたにちがいないわ」と感激します。

この両親からのプレゼントも相当なものですが、ここからのリーサの行動もまた、とってもいい。

これまで兄2人と一緒に使っていた部屋から、宝物である「わたしのお人形」たちをとってきて、その子たちのために、棚にすてきな部屋を作ってあげるのです。

「まずはじめに、赤い布をしいて、じゅうたんにしました。さて、つぎに、おばあさんからクリスマス・プレゼントにもらった小さい、すてきな、お人形用の家具を、そこにすえつけました。つぎには、小さいお人形たちのベッドをおき、それから、小さいお人形たちをいれてあげました。」

そのあと、大きい人形用のベッドを部屋の隅においたり、自分の本や雑誌、箱、大天使のしおり(もも色の着ものをきて、つばさを持った!)などの品々を、すべて棚におさめます。

自分の大切な物を選び出して、そして、それらの置き場所を全て決める。これって、まさに“ときめくお片づけ”ですよね。

部屋を見回すリーサの幸福そうな表情、人形を棚におさめたり、積み重ねた本を意気揚々とに運ぶ姿のイラスト(挿絵は、リンドグレーンといえば!の、イロン・ヴィークランド)も相まって、読む度に嬉しい気持ちになる一編です。

 

折しも、今月号の「CREA」が児童文学の特集で、やかまし村の子どもたちが暮らす家のモデルとなった、リンドグレーンの父親の生家の写真が掲載されています。

CREA 2016年2月号 大人の少年少女文学

CREA 2016年2月号 大人の少年少女文学

 

私の手元にある『やかまし村の子供たち』は岩波少年文庫の方ではなく、リンドグレーン作品集4とあるハードカバーの方で、こちらには表紙の見返しに、三軒並んだ北屋敷、中屋敷、南屋敷のイラストが載っています。CREA今月号のP70に、まさしくその家々が!

写真を眺めながら、リーサの可愛い屋根裏部屋や、ブリッタとアンナのおじいさんの、ゆり椅子の置かれた感じの良い部屋、カブラぬきをする畑や、ほし草置き場…などなど、物語に出てくるシーンについて想像を膨らませることができ、感慨深かったです。ほかにも、リンドグレーンの書斎の写真や、リーサの部屋のイラストの紹介(「子どもの物語が始まるベッドいろいろ」)などもあって、とても楽しめる内容でした。

CREA」の本特集は、いつも編集の方の個人的な思い入れが感じられるというか、とにかくぎゅーっと詰まった読み応えのある内容で、非常にマニアック。

今月号も、好きな作品ベスト50に始まり(アンとジョーの妄想対談つき)、幻の「バタつきパン」に出会えるベーカリーの紹介やら、オカズデザインさんによる料理の再現、アンやトムの家の間取り図、いじわるおばさん図鑑(筆頭はやはり、小公女のミンチン先生!)などなど、永久保存版にふさわしい充実ぶりです

文藝春秋社が出している女性誌だけあって、文学に精通した面々が編集されているのだと想像しています。2014年9月号の「おいしい読書」の食の本特集もとても面白くて、今でも時々読み返す一冊。おそらく本の特集のときは、女性誌の枠を超えて、老若男女の本好きたちのツボをつく内容を目指しているのでしょうね。

CREA (クレア) 2014年 09月号 [雑誌]

CREA (クレア) 2014年 09月号 [雑誌]

 

 

さて、初めに戻って、“理想のおうちを想像すること”についてなのですが、これが簡単そうでいて、当初、私にはかなり難しかったです。なぜなら、片付いていない状態のおうちには、どっさりノイズ(雑音)があるというか、理想の暮らしやおうちのイメージを思い浮かべようにも、それを邪魔する雑多なものたちが、まだまだあるというのが、片づけ前の現状だったわけです。

結論からいえば、片づけ以前にすみずみまで完璧な「理想のおうちと暮らし」を想像することは、かなりハードルが高い(少なくとも、私はそうでした)。自転車のサドルにまたがったこともないのに、自転車に乗れるようにはならない、という感じですね。

 

“理想の部屋を思い浮かべることと、片づけとは、(厳密にいえば)同時進行でしかできない”

というのが、片づけ祭りを終えてみての個人的な感想です。つまり、理想のおうちを想像することは、スタートであり、かつゴールであるということ。なんだか青い鳥みたいな話ですけれども。

しかし、それが仮のゴールであったとしても、ともかく設定してみないことには、話が(片づけが)始まらないわけで。

となると、まずは、ぼんやりとでも「こうなるといいな」というおうち、暮らし方を思い浮かべて、とりあえず片付けはじめてみる、ということに(特に私のようにせっかちなタイプの場合)落ち着くのだと思います。そしてバランスをとりながら、少しずつ“理想のおうち”を探っていこう…と、こういった自分なりの解釈を経て、私は片付けに着手しました(というか、片づけたい!という熱意が覚めやらぬうちにやりたかったのですね。鉄は熱いうちに打てとな)。

そんな中で、この『やかまし村の子どもたち』など、自分がとても大事にしている本をあらためて読み返してみると、少し見えてくるものがあったように思います。

 

片づけは、(自分のなかに埋め込まれた)タイムカプセルを発掘する作業に似ているといえます。あるいは彫刻のように、自分のかたちを彫りだしていく行程とも。

私の場合、ヒントをくれたのは、やっぱり本でした。

それが本でも、服でも、靴でも、文房具でも、パソコンでも、裁縫箱でも、お酒でも、器でも、バスケットボールでも、ぬいぐるみでも…永らく大切にしているものは、その人の分身。それらを手がかりとして、ゆっくり紐解いていく時間にこそ、“理想のおうち”を見つけるためのヒントが隠されている気がした、本日の「バック・トゥ・お片づけ」でした。

 

片付け祭り、完了しました。/『人生がときめく片づけの魔法』

人生がときめく片づけの魔法

人生がときめく片づけの魔法

 

“片づけの天才(あるいは妖精)” による、革命的お片づけ本。

 

新年おめでとうございます。かなり久しぶりの日記です。

このブログをお休みしていた2015年9月から12月にかけて、丸4ヶ月間というもの、“お片づけ”に没頭していました。無事に片付けを終え、2016年を迎えることができ、清々しい気持ちでこの文章を綴っています。

今回のお片づけには、何冊かの指針となる本がありました。このブログでも追って紹介していきたいなと思っていますが、まず、その筆頭といえるのが、何と言ってもこの『人生がときめく片づけの魔法』です。

 

作者は、2015年4月、米『TIME』誌で「世界で最も影響力のある100人」に選ばれ、昨年、あらためて時の人となった「こんまり」さんこと近藤麻理絵さん

その第一作であり、ベストセラーとなったのが本書です。今更ブログで紹介するまでもないほど、世界的ブームになってしまった「ときめくお片づけ」ですが、本気で“片づけ祭り”をやってみて、そして完了した一個人として、この本について感じたことを記しておきたいと思います。

 

「ときめくお片づけ」は、まず衣類の整理から始まるのですが、現在のマイ・クローゼットはすっかり風通しがよくなり、なんとスカートは2枚に(!)

減らした当初は、その数の少なさに驚いたものですが、それで全く困らずに過ごせていることが、更に予想を超えた驚きでした。その後、1枚を買い足して、現在は3枚のスカートを着回して暮らしています。ちなみにパンツは冬物3本、春夏2本で、それでボトムスは以上。どれもお気に入りなので、毎日のコーディネートに迷うこともなく(やはりボトムスは着こなしの土台なので、ベースができていれば、おのずと着る服が全身、スムーズに選べるのです)、管理も非常に楽です。

手持ちの服を全て把握できていることが、こんなにも快適というのが初めてわかりました。

衣類の整理だけでも、劇的に暮らしが変わります。それが本類、書類、小物類、思い出品…という順に片付いていく、そのめくるめく感じ、まさに魔法的!

 

おそらく、いわゆる「本好き」という人種(はい、もちろん私もその一人です)は、どうもベストセラーには触手が動かない性質のため、この本がはじめにブームになったとき(2011年)は、恥ずかしながら、読んでもいないのに「ああ、ときめきで判断する整理法の本ね〜」と、わかったつもりでスルーしていました。

しかし、週刊文春の2015年9月10日号の「阿川佐和子のこの人に会いたい」に、近藤麻理絵さんがゲストで出た対談を読み、そのあと、どうしても気になって、本書を購入(阿川さんの、魅惑的に話を引き出す力にも感謝!)。

読んですぐ、片付けに着手しました。こんまりさんの頭の中を垣間みて、そのめくるめく片づけワールドに、はまり込んでしまったのです。

 

さて、この『人生がときめく片づけの魔法』。一読してまず感じたことは、

「この本の文章そのものが、完璧に片付けられている!」

という新鮮な驚きでした。

どこを読んでも無駄な部分がなく、かつ冒頭から結びの言葉に至るまでの各章が、ものすごく整理され尽くしているのです。

この本が伝えたい事はものすごく簡潔。「はじめに」を読むだけでそれはわかります。

「一気に、短期に、完璧に」そして「すべての持ち物の置き場所を決める」こと。

この二つだけが片づけの極意であり、まずそれをシンプルに伝え、そして続く章で「それを実際にどういう手順で行えば、片付くのか」を具体的に示している一冊なんですね。

 

読後、実際に片づけ祭りを始めてみて、片づけが少し滞ったり、疑問に感じることが出てくるたび、この本(と、二冊目の『人生がときめく片づけの魔法2』を何度読み返したかわからないのですが(少なめに見積もっても、併せて約5〜60回ほどはページを開いたかと…)、読み返す度に確実に答えが見つかり、こんまりさんが横についてナビゲートしてくれているような錯覚を覚えた本でした。 

人生がときめく片づけの魔法2

人生がときめく片づけの魔法2

 

 

本文中では(自虐的表現として)時折、自らを“片付けのヘンタイ”と称するこんまりさんですが、間違いなく彼女は“片付けの天才”といえるでしょう。もしくは、その外見的イメージから“片付けの妖精”でも良いかと思います。そして、天才というのは、その世界を根底から変えてしまうものです(例えばモーツァルトビートルズが音楽界を、アインシュタインやホーキングが科学界を変えてしまったように。その人が現れると、その世界の全ての風景が変わってしまうという意味で)。本当にこんまりさんは、片づけ界に舞い降りた天からの使者という印象です。けっして大げさでなく。

 

私が「片づけ祭り」に取り組み始めたのは2015年9月11日。それから12月の終わりまで、とにかく物を処分し、そして置き場所を決めて行くという、ただそれだけなのにも関わらず、非常に充実した、それこそ心ときめく毎日でした。

私は自他ともに認める本の虫です(こんまりさんが「人生の8割以上を片付けに費やしてきた」ように、私も人生の8割以上を、本にまつわることに費やしてきた気がします)。が、ここまで夢中になれた本は、たぶん両手の指にも満たないです。そしてそういう人が世界中に数多くいるから、これほどのブームを巻き起こしたのでしょうね。遅ればせながら、そのムーブメントを肌で感じることができました。

 

そして、この本が一番の起爆剤になったのは確実ですが、これまで読んできた、その他の「片付けに関する本」にも、心からの感謝を捧げたいと思いました。なぜならこの「ときめくお片づけ」のバックグラウンドには、こんまりさんが吸収してきた過去の片づけ本、そして雑誌の片づけ特集などの影響もまた確実にあると思うからです。

 

今回の日記だけでは語り尽くせないので、少しずつこの本や、また他の片づけ本についても、追加でアップして書いてみたいと思っています。

 

ちなみに「本類を整理すると情報に敏感になる」という言葉がこの本の文中にあります。

私の例でいうと1000冊以上あった蔵書が10分の1以下に減りました。家に3つあった本棚に、ぎゅうぎゅうに入っていた本たちが、居間のコンパクトな扉付きの本棚一つにぴったりと収まるようになり、そしてそのときめく中身に大満足。手放すと決めた、かつて大好きだった本たちは、古本のチャリティー「チャリボン」に全て寄付しました。

チャリボン【古本がNPO・NGOへの寄付・募金となる新しいしくみ】

 

これからの自分が新たにどんな本を読んでいくのか、出会っていくのか…今からわくわくしている、2016年最初の月でありました。

 

 

YESのごはん。/『料理=高山なおみ』

 料理=高山なおみ

料理=高山なおみ

 

“作り手の領分”を大事にする、ということ。

著書のすべてを読んでいるわけではないけれど、高山なおみさんの本のなかで、多分いちばん好きな本です。

高山さんは料理家、そして文筆家でもあるので、著作には料理本とエッセイの両方があるのですが、そのふたつが渾然となったような魅力のある一冊で、こういう作りの本には目がありません。

 

この本が出たときの高山さんのインタビューに、こんな言葉がありました。

「料理するのが億劫で、できないことを恥ずかしがっている人。そういう人に向けて、手紙を出すつもりで書きました。楽しいことはほかにもたくさんあるから、料理なんか、べつにつくらなくったっていいんです。でもいつか、ふとつくりたくなった時に開いてもらいたい。(中略)この本は糸綴じだから紙がはずれにくいんです。100年は持つだろうから、子どもや孫の代まで引き継がれていくような、そんな本にしてもらえたらうれしいなあと思います」

RYOURI=NAOMI TAKAYAMA:料理家・高山なおみ「料理とは生々しく、あやうい作業である」|ANTENNA -LIFE-|.fatale|fatale.honeyee.com

 

料理なんか、べつにつくらなくったっていいんです」って、料理を生業とする人には、なかなか言えない言葉だと思いました。でも、これが腹から出た言葉であるというのはわかるし、こういう前提のうえで、それでも自分は「料理家」である、というのが、高山さんが、ほかの料理家の人とは、少し立ち位置が違っている理由でもある気がしました。

 

そして、この『料理=高山なおみ』のなかにも「毎日の料理がおいしすぎるのは、体にも気持ちにも、毒だという気がします」とか、だしの昆布を煮立ててしまっても、でき上がるころにはおいしい…と感心するとか、「レシピは料理家のものじゃなく、生活をしているみんなのもの」といった、読んでいるだけでどきどきするような、(高山さんが言うからさらに)輝きを帯びた言葉がたくさん出てきます。

また、高山さんは本がとても好きだから、この「糸綴じの本」という言葉、そして発想が出てくるのだと感じました。タイトルである『料理=高山なおみというのもすごい(代表作のひとつ『高山なおみの料理』へのセルフアンサーでもあると思うのですが)。つけるのに、相当な覚悟がいる題だなぁと、色々うなってしまう本なのです。

 

と、ここまでつらつらと書きましたが、レシピそのものも本当に素敵です。

前述の「手紙」というのは、読み物部分の文章も勿論のこと、レシピにうめこまれた細やかな言葉にも多くの“手紙的要素”があり、それらの丁寧に書かれた言葉に、何度も胸を打たれました。

たとえば、P16の「野菜の塩もみ」から。

「野菜は塩をふると、浸透圧で水が出てきます。たとえばにんじんなら、細切りにしたのをボウルに入れ、塩をふってから指を開いた手の平でやさしく合わせるのです。にんじんの切り口に、塩をまとわせるような感覚です。」

こういった書き出しから始まり、このあとも、10分でも放っておけば「にんじんが汗をかいようになり」、その甘さと歯ごたえに驚きつつ、野菜と塩の量の割合をどうするかにふれ、和え物やお弁当の彩り、浅漬け風にもできると言及し、塩をするのはタッパーでなくボウルで(そうでないと、うまく塩がまわらないため)と注意し…と、本当に隣りで、高山さんが作り方を教えてくれているような書きぶりなのです。それも、「野菜の塩もみ」という、あるいは一般的に“料理”とも言いにくいような一品について。そこが本書の、特筆すべき点のひとつでもあると思います。

 

こんなふうに書かれたレシピは読んでいるだけで嬉しいし、それもあってか、ここしばらく塩もみ野菜を作るのにはまっています。少し時間のあるときに、にんじん、大根、きゅうり…と、冷蔵庫にある野菜を細切りにしておいて、これにP17にある「甘酸っぱいドレッシング」をかけて、朝昼晩、もりもり食べています。

そのままで食べるほかにも、冷やし中華の具に加えてみたり、ベビーリーフやレタスなど葉もの野菜があれば、この細切り野菜をのっけるだけで、ちょっとしたサラダが一品できるのも有り難いところ。高山なおみさんというと、はじめの頃は各種スパイスを使った無国籍な印象の料理を作る面がよくクローズ・アップされていましたが、同時に、何よりも“暮らし”に、当たり前の顔をして溶け込むような「おかず」っぽい感じの料理もまた、この人の持ち味なのだと思います(『日々ごはん』とか『気ぬけごはん』などの、ほかの著書のタイトルにも、それが表れていますね)。というか、震災以降くらいから特に意識して、より日常のごはんへ近づいていきたいという、高山さんの意志が本書からも感じ取れます。

 

そして、この『料理=高山なおみ』を読んでいると、人それぞれのごはんを肯定する、ということに重きが置かれているのに気づきます。何せ、この本の最後で高山さんは

「今日は何が食べたいか、自分の心と相談しながら、コンビニでじっくりお弁当を選ぶのも料理だと思う。」

とまで言っています。

この言葉には賛否あるかと思いますし、私自身もまた「はて、それは本当に料理なのか?」と思うところもあります。でも、この言葉に込められたメッセージを読み取るべく、よくよく噛み締めてみれば、今まで霞んで見えなかったものが、見えてくるようにも思えたりします。

高山なおみさんは、生きることとか、食べることについて、かなり厳密に、突き詰めて考えている人だから、こういう極論的な言葉を発することが出来るのでしょう。

また、「はじめに」という文章のなかには、ときには買ってきたお惣菜もまじえた素朴なごはんを「おいしい、おいしい」と感謝して食べる、高山さんのお母さんの姿や、「私も小ブタのようにがむしゃらに、どんなものでも口いっぱいに頬張って味わいました」という高山さんの幼い頃が描写されます。

それはとてもおいしそうで、食べるということを善とし、こよなく愛す高山さんの“原点”なのだろうなと感じた一文でした。

 

ほかに、高山なおみさん関連で好きな本を二冊ほど。

諸国空想料理店 (ちくま文庫)

諸国空想料理店 (ちくま文庫)

 

初出は20年前(!)の高山さんの初めての著書。スパイスと異国の香りと、あふれるような熱気が感じられ、ごちゃまぜ感がとても楽しい本です。わりに淡々とした筆致の『日々ごはん』や『ぶじ日記』シリーズなどに比べると、若さがほとばしって感情があふれかえってしまっている感じが、個人的には生っぽくて好きです。

ペルーやネパール、ベトナムなどの旅先でのごはんエッセイや、恋にまつわるレシピ、疲れたときのうどん、すり鉢礼賛などが、ぎゅうぎゅうに詰まった一冊。調味料に関するコラム「油脂のこと」に書かれたバターの使い方、香味油の作り方などにも膝を打ちました。かつて働いていた吉祥寺のレストラン「諸国空想料理店KuuKuu」のオーナーの、高山さん評もすごく面白かったです(動物にたとえるなら女豹!だそうな)。

 

 

二度寝で番茶 (双葉文庫)

二度寝で番茶 (双葉文庫)

 

こちらは脚本家の木皿泉さんの本ですが、冒頭の特別コラボレーション(木皿さんのエッセイ×高山さんの料理)が、とにかく素晴らしいです。りんごの皮むきの最中の写真や、水にひたした青大豆、冷蔵庫のなかのラップのかかった鮭のムニエル…どれも、何てことないのに美しい。

表紙は、ドラマ「すいか」への高山さんのオマージュ。(ドラマのなかに、生活することの愛らしき象徴として、梅干しの種が出てくるのです)気づいたときには、思わず「わっ」と興奮してしまいました。木皿泉さんの対話集の面白さ、世界観を、これ以上ないくらい引き立てている、高山さんの名脇役としての優れたお仕事です。

 

高山なおみさんは、“食べもの”の持つ本来の味や、土くささのようなものを、できるだけ失わないように細心の注意をはらい、可能な限りプリミティブな料理を再現できるレシピを目指しているように思えます。同時に、そのレシピがどのように作られるのかは、あくまでも作り手にゆだね、“食べもの”と双方向で、“生きもの”としての私たちの現実を考えながら、そこに見合った料理というものを、見据えているようにも思います。

四季の移り変わりと、自分や周りの人たちの身体に寄り添いつつ、私もまた日々のごはんを作っていきたいなと思える本たちでした。