日常茶飯本

“暮らしの本”愛好家の日記

YESのごはん。/『料理=高山なおみ』

 料理=高山なおみ

料理=高山なおみ

 

“作り手の領分”を大事にする、ということ。

著書のすべてを読んでいるわけではないけれど、高山なおみさんの本のなかで、多分いちばん好きな本です。

高山さんは料理家、そして文筆家でもあるので、著作には料理本とエッセイの両方があるのですが、そのふたつが渾然となったような魅力のある一冊で、こういう作りの本には目がありません。

 

この本が出たときの高山さんのインタビューに、こんな言葉がありました。

「料理するのが億劫で、できないことを恥ずかしがっている人。そういう人に向けて、手紙を出すつもりで書きました。楽しいことはほかにもたくさんあるから、料理なんか、べつにつくらなくったっていいんです。でもいつか、ふとつくりたくなった時に開いてもらいたい。(中略)この本は糸綴じだから紙がはずれにくいんです。100年は持つだろうから、子どもや孫の代まで引き継がれていくような、そんな本にしてもらえたらうれしいなあと思います」

RYOURI=NAOMI TAKAYAMA:料理家・高山なおみ「料理とは生々しく、あやうい作業である」|ANTENNA -LIFE-|.fatale|fatale.honeyee.com

 

料理なんか、べつにつくらなくったっていいんです」って、料理を生業とする人には、なかなか言えない言葉だと思いました。でも、これが腹から出た言葉であるというのはわかるし、こういう前提のうえで、それでも自分は「料理家」である、というのが、高山さんが、ほかの料理家の人とは、少し立ち位置が違っている理由でもある気がしました。

 

そして、この『料理=高山なおみ』のなかにも「毎日の料理がおいしすぎるのは、体にも気持ちにも、毒だという気がします」とか、だしの昆布を煮立ててしまっても、でき上がるころにはおいしい…と感心するとか、「レシピは料理家のものじゃなく、生活をしているみんなのもの」といった、読んでいるだけでどきどきするような、(高山さんが言うからさらに)輝きを帯びた言葉がたくさん出てきます。

また、高山さんは本がとても好きだから、この「糸綴じの本」という言葉、そして発想が出てくるのだと感じました。タイトルである『料理=高山なおみというのもすごい(代表作のひとつ『高山なおみの料理』へのセルフアンサーでもあると思うのですが)。つけるのに、相当な覚悟がいる題だなぁと、色々うなってしまう本なのです。

 

と、ここまでつらつらと書きましたが、レシピそのものも本当に素敵です。

前述の「手紙」というのは、読み物部分の文章も勿論のこと、レシピにうめこまれた細やかな言葉にも多くの“手紙的要素”があり、それらの丁寧に書かれた言葉に、何度も胸を打たれました。

たとえば、P16の「野菜の塩もみ」から。

「野菜は塩をふると、浸透圧で水が出てきます。たとえばにんじんなら、細切りにしたのをボウルに入れ、塩をふってから指を開いた手の平でやさしく合わせるのです。にんじんの切り口に、塩をまとわせるような感覚です。」

こういった書き出しから始まり、このあとも、10分でも放っておけば「にんじんが汗をかいようになり」、その甘さと歯ごたえに驚きつつ、野菜と塩の量の割合をどうするかにふれ、和え物やお弁当の彩り、浅漬け風にもできると言及し、塩をするのはタッパーでなくボウルで(そうでないと、うまく塩がまわらないため)と注意し…と、本当に隣りで、高山さんが作り方を教えてくれているような書きぶりなのです。それも、「野菜の塩もみ」という、あるいは一般的に“料理”とも言いにくいような一品について。そこが本書の、特筆すべき点のひとつでもあると思います。

 

こんなふうに書かれたレシピは読んでいるだけで嬉しいし、それもあってか、ここしばらく塩もみ野菜を作るのにはまっています。少し時間のあるときに、にんじん、大根、きゅうり…と、冷蔵庫にある野菜を細切りにしておいて、これにP17にある「甘酸っぱいドレッシング」をかけて、朝昼晩、もりもり食べています。

そのままで食べるほかにも、冷やし中華の具に加えてみたり、ベビーリーフやレタスなど葉もの野菜があれば、この細切り野菜をのっけるだけで、ちょっとしたサラダが一品できるのも有り難いところ。高山なおみさんというと、はじめの頃は各種スパイスを使った無国籍な印象の料理を作る面がよくクローズ・アップされていましたが、同時に、何よりも“暮らし”に、当たり前の顔をして溶け込むような「おかず」っぽい感じの料理もまた、この人の持ち味なのだと思います(『日々ごはん』とか『気ぬけごはん』などの、ほかの著書のタイトルにも、それが表れていますね)。というか、震災以降くらいから特に意識して、より日常のごはんへ近づいていきたいという、高山さんの意志が本書からも感じ取れます。

 

そして、この『料理=高山なおみ』を読んでいると、人それぞれのごはんを肯定する、ということに重きが置かれているのに気づきます。何せ、この本の最後で高山さんは

「今日は何が食べたいか、自分の心と相談しながら、コンビニでじっくりお弁当を選ぶのも料理だと思う。」

とまで言っています。

この言葉には賛否あるかと思いますし、私自身もまた「はて、それは本当に料理なのか?」と思うところもあります。でも、この言葉に込められたメッセージを読み取るべく、よくよく噛み締めてみれば、今まで霞んで見えなかったものが、見えてくるようにも思えたりします。

高山なおみさんは、生きることとか、食べることについて、かなり厳密に、突き詰めて考えている人だから、こういう極論的な言葉を発することが出来るのでしょう。

また、「はじめに」という文章のなかには、ときには買ってきたお惣菜もまじえた素朴なごはんを「おいしい、おいしい」と感謝して食べる、高山さんのお母さんの姿や、「私も小ブタのようにがむしゃらに、どんなものでも口いっぱいに頬張って味わいました」という高山さんの幼い頃が描写されます。

それはとてもおいしそうで、食べるということを善とし、こよなく愛す高山さんの“原点”なのだろうなと感じた一文でした。

 

ほかに、高山なおみさん関連で好きな本を二冊ほど。

諸国空想料理店 (ちくま文庫)

諸国空想料理店 (ちくま文庫)

 

初出は20年前(!)の高山さんの初めての著書。スパイスと異国の香りと、あふれるような熱気が感じられ、ごちゃまぜ感がとても楽しい本です。わりに淡々とした筆致の『日々ごはん』や『ぶじ日記』シリーズなどに比べると、若さがほとばしって感情があふれかえってしまっている感じが、個人的には生っぽくて好きです。

ペルーやネパール、ベトナムなどの旅先でのごはんエッセイや、恋にまつわるレシピ、疲れたときのうどん、すり鉢礼賛などが、ぎゅうぎゅうに詰まった一冊。調味料に関するコラム「油脂のこと」に書かれたバターの使い方、香味油の作り方などにも膝を打ちました。かつて働いていた吉祥寺のレストラン「諸国空想料理店KuuKuu」のオーナーの、高山さん評もすごく面白かったです(動物にたとえるなら女豹!だそうな)。

 

 

二度寝で番茶 (双葉文庫)

二度寝で番茶 (双葉文庫)

 

こちらは脚本家の木皿泉さんの本ですが、冒頭の特別コラボレーション(木皿さんのエッセイ×高山さんの料理)が、とにかく素晴らしいです。りんごの皮むきの最中の写真や、水にひたした青大豆、冷蔵庫のなかのラップのかかった鮭のムニエル…どれも、何てことないのに美しい。

表紙は、ドラマ「すいか」への高山さんのオマージュ。(ドラマのなかに、生活することの愛らしき象徴として、梅干しの種が出てくるのです)気づいたときには、思わず「わっ」と興奮してしまいました。木皿泉さんの対話集の面白さ、世界観を、これ以上ないくらい引き立てている、高山さんの名脇役としての優れたお仕事です。

 

高山なおみさんは、“食べもの”の持つ本来の味や、土くささのようなものを、できるだけ失わないように細心の注意をはらい、可能な限りプリミティブな料理を再現できるレシピを目指しているように思えます。同時に、そのレシピがどのように作られるのかは、あくまでも作り手にゆだね、“食べもの”と双方向で、“生きもの”としての私たちの現実を考えながら、そこに見合った料理というものを、見据えているようにも思います。

四季の移り変わりと、自分や周りの人たちの身体に寄り添いつつ、私もまた日々のごはんを作っていきたいなと思える本たちでした。

装う喜びを、ボタンホールに花を。/『The Sartorialist(サルトリアリスト)』

The Sartorialist

The Sartorialist

 

世界のリアル・クローズの、果てなき面白さ。

ときどき「◯◯はファッションだ!」というような発言や文章に出くわすことがあります。その大半は批判的な文脈であり、その「◯◯」について、わりと雄弁にダメ出しをしていることがほとんどです。

しかし、それらを目にしたときに私が感じるのは、その批判の対象や内容以上に「この書き手は、“装うこと”にあまり興味がない、もしくはネガティブな感情を抱いているのではないか?」ということ。

「ファッション」といういう言葉は広義のものなので、必ずしも衣服のことだけを指しているわけではないでしょうし、その文章における意味はおそらく「流行の(=上っ面の)」という部分を拾ってのことなのでしょう。また、ファッションには自己主張という側面もあるので、それが人によっては、あまり気に入らない、ということもあるのかもしれません。

しかし、やはり“服を着る”ということに愛着を持っている人ならば、そういった表現は用いないんじゃないかな、と思うのです。はかない、あるいは明らかに馬鹿らしいと思えるような、いっときの流行も含めての「ファッション」なのだと思うし、それこそが服を着るということ、そして生きた人間そのものを考察することにおいての、非常にエキサイティングな部分であると思うので。

 

さて、『The Sartlialist(サルトリアリスト)』は、写真家スコット・シューマンのストリート・スナップ集です。「最高におしゃれ」と感じた街角の人々の写真を紹介するという、2005年にスタートしたブログから生まれた本で、現在二冊が刊行されています(2のタイトルは『The Saltrialist:Closer』)。 

The Sartorialist: Closer

The Sartorialist: Closer

  • 作者: Scott Schuman
  • 出版社/メーカー: Penguin Books
  • 発売日: 2012/08/29
  • メディア: ペーパーバック
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ファッション・スナップの面白さは、やはりその臨場感と「生」の新鮮さにあると思うのですが、この二冊は、いずれもそれらを十二分に備えていて、何度ページをめくっても、その都度、発見があります。

一冊目は2009年、二冊目は2012年に刊行されていますが、数年にわたって読んでいく楽しみがあり、それこそ“流行”では終わらない魅力を備えた本たちです。

 

私は紙の本でじっくり眺めるのが好きですが、下記のブログでももちろん見られます。

http://www.thesartorialist.com/

 

面白いのは、「この人、素敵だな〜」と感じる人が、ときに変わっていくこと。これは、自分自身の「おしゃれ観」の変化でもあると思うのです。そして、何度見ても変わらずに、すごく好きなコーディネートというのもあります。それが自分の「おしゃれの核」なんだろうな、と感じます。

ココ・シャネルの名言に「ファッションは変わる、でも、スタイルは永遠よ」というのがありますが、この「おしゃれの核」というのが、すなわち自分にとっての「スタイル」と言い換えられるのかもしれません。

 

個人的に、見るたびに「いい!」と思うショットをいくつか書き出してみます。

まずは一冊目から。p30の白髪のマダム。ニューヨークの5月、ラベンダーがかったライトグレーのワントーンコーデに、ネイビーのヘアバンド、上品なパールのネックレスとターコイズ・ブルーのバングルがベストバランス。何気ない足元のシャネルのフラットシューズに無理がなく、この馴染み具合がほんと凄いです(相当のセンスのある、ある程度年配の女性でないと出来ない筈)。これまた堂に入ったモデルポーズで、にこやかに笑う姿が素敵です。

p157のブロンドのショートへアに、淡いブルーの小花柄のシフォンワンピース。アクセサリーは同じ色合いのロングネックレスのみでシンプルに。いかにも北欧の女の子といった感じの髪の色&瞳の色と、服装がすごく合っています。こういうフェミニンな服装にはショートヘア、あるいはまとめ髪がいいですね。夏のストックホルムでのショット。

 

次は二冊目から。p100の破れたカシミア(ではないかな?)のニットの女の子。ハットとジャケットの素材感がぴったり。ちらっと見える巻き毛も可愛い。何より笑顔がキュートで、この虫喰い穴のあいたニットの堂々とした着こなしから、本当にお気に入りの服を着ているんだろうなと推測できます。かなりおしゃれ上級者の、ロンドンガールっぽい装いです。

p166の、ベルベットのリボンで束ねた髪に、深緑のドレス、右手に深紅のコート、左手にはアンティークっぽいミニのトランクの女性。モードな赤ずきん(大人ヴァージョン)というようなスタイルです。街で見かけたら、異世界を感じて思わず振り返ってしまいそうです。これまたロンドンでのショット。 

 

そして私にとって、現時点での最も好きなショットであり、何度見てもワンダフル!と感じる着こなしは、一冊めのp133の、スキンヘッドに眼鏡、スーツ姿の男性。

品の良いベージュのグレンチェックのスーツに白いシャツ、ネイビーのベスト、同じくネイビーのニット素材のネクタイ。ボタンホールに、それは優雅に赤い小さな花が差し込まれ、そして胸ポケットからチラリと見える、ポケットチーフのフォゲットミーノットブルー(わすれな草色)(!)全てが完璧です。

知性と茶目っ気、エレガンスと遊び心が感じられる、2008年にミラノで撮られたショットです。

ほかにも、書ききれないほどたくさんの素敵な着こなしがありますが(たとえば日本のフォトグラファー&ブロガーであるシトウレイさんや、スコットに「スタイルが時代を超越している」と言わしめた、ファッショニスタのエヴァさんなども素晴らしいです。2人とも、2冊のどちらにも登場)…とりあえず、いくつかを抜き書きしてみました。 

 

ファッションは、「時代を映す鏡」とも言われています。『The Sartlialist』は、それをシンプルに体現したブログ。この本はリアル・クローズというものを考えるとき、欠かせない一冊です。“I'm OK. You're OK.”という言葉が心理学用語にありますが、これらの人々は、私にとっておしゃれの楽しさ、人間の良い部分を見せてくれる、生きたリアル・クローズなのです。

「ファッション」というものに、あまり良い印象を抱いていない人にも、ぜひ読んでほしいと思える二冊。人間に興味があるのであれば、きっと楽しむことが出来る本ではないでしょうか。

おしゃれな人に「のんきで善良で大らかな人」というのは(残念ながら)もしかすると少ないかもしれませんが、「美しいものを愛し、好奇心旺盛で、周りを気遣う人」というのは多いはず!だと、個人的には思っています。

 

インスタグラムが隆盛を極め、「写真の力」を(文字通り)目の当たりにすることは日常ですが、スコット・シューマンの写真はやはり、“人間をとらえる”ということにおいて傑出していると思います。

 

そういうわけで、おしゃれな老若男女のファッション(=人間性)を見ることのできる『The Sartorialist』シリーズは私のファッション・バイブルのひとつです。9月には待望の三冊目が発売予定(もう既に、アマゾンで予約してしまいました…)。

The Sartorialist: X (The Sartorialist Volume 3)

The Sartorialist: X (The Sartorialist Volume 3)

 

 この本が手元に届くのは、9月中旬ごろ。暑さも少しずつやわらぎはじめて、よりいっそう“衣”の喜びを堪能できるのではないかと思います。楽しみ!

 

夢の服は、物語のなかに。/『ムギと王さま』

 ムギと王さま―本の小べや〈1〉 (岩波少年文庫)

 

ムギと王さま―本の小べや〈1〉 (岩波少年文庫)

 

本のなかで会える、まばゆい服たち。

今週のお題「好きな服」。ということで… 読書ブログながら、お題に初挑戦してみました。

日々、実際に身につける服、いわゆるリアル・クローズにまつわる本も好きなのですが、今回はそれとは別の次元で、心がときめく「好きな服」が思い浮かぶ本について、色々書いてみたいと思います。

 

まずは、ファージョン『ムギと王さま』に収録されている「小さな仕立屋さん」のお話から。

大きな仕立て屋さんに奉公する身である、ロタという名の19歳のお針子。彼女はドレスのデザインに天性のセンスを持っているのですが、自分ではまだそれに気づいておらず、雇い主である大きな仕立て屋さんのゴーストデザイナー(←和製英語でしょうか…)として活躍しています。

若き王様が花嫁を選ぶ舞踏会が開催されることとなり、ロタは3人の花嫁候補のためのドレスを3着、考えることになります。

それは、日の光と、月の光と、虹をイメージした、3つの夜会服。

まばゆい太陽のドレス、クールでタイトな月のドレス、チラチラ光る、涙とコーディネートされたような虹のドレス…自分の手で縫い上げた美しい服を、顧客に着付けの説明を見せるための、ごくわずかな間だけ、自身がモデルとしてまとい、従僕の青年とダンスを踊るロタ。

小さいけれど、とても素敵な恋物語です。いわゆる“シンデレラストーリー”を逆手にとったような物語の展開にも、味わい深いものがあります。

 

次にご紹介するのは、『長靴下のピッピ』や『やかまし村』シリーズで有名なリンドグレーン『親指こぞうニルス・カールソン』に収められている「五月の夜」というお話に登場する服。このドレスも、強く深く、印象に残っています。

この短編集は、残念ながら絶版。私の手元にあるのは、1985年の第八刷です。現在、図書館もしくは中古本などでしか読めませんが、表題作のほか、魔法の種から可愛いお人形が生えてくる「ミラベル」や、おままごとを生まれて初めて楽しむ、お姫様の姿がいきいきと描かれる「遊びたがらないお姫さま」など、ぜひ読み継がれてほしい!と思える物語が、ぎゅっと詰まってます。

親指こぞうニルス・カールソン (リンドグレーン作品集 (16))

親指こぞうニルス・カールソン (リンドグレーン作品集 (16))

 

 「五月の夜」のお話の主人公は、リンゴ園を営む両親のもとで暮らす女の子・レーナ。彼女は誕生日のプレゼントに、可愛らしい白いレースのハンカチをもらいます。そしてその晩、レーナは妖精のムイと出会います。

妖精の王様のお妃選びの舞踏会に、着ていくためのドレスをやぶいてしまった、小さな妖精のムイ。すすり泣くムイから、ハンカチをもらえないかと頼まれ、レーナはちょっと迷ったあと、それを彼女にあげるのです。喜びで、泣いたり笑ったりしながら、ムイはハンカチに魔法をかけます。

「妖精は、広く、波うつようなスカートに、ふち飾りも、まわりのレースもある、ほのかにきらめくドレスをつけて、そこに立っていました。この世にこれよりうつくしいドレスがあろうとは、レーナには思えませんでした。」

 

美しいドレスに身をつつみ、軽やかに踊るムイと王様の姿を、リンゴの木の上から眺めたレーナ。舞踏会のあと、妖精の王様はきっとムイをお妃に選ぶだろう、というレーナの言葉に、ムイはこんな言葉を返します。

「わたしは、そうなるとはおもっていないの。…それに、そういうのは、どっちでもいいの。もしかわたしが妖精のお妃になったとしても、今夜のようにしあわせにはなれないわ。今夜のわたしのように、しあわせになれるのは、だれだって、一生に一度だけしかないんだわ。

 

この妖精のムイの言葉も、大人になった今読み返すと、「幸福」というものに対する一つの真理を表しているようで、ちょっとどきっとさせられ、夢のような一夜の美しさ、はかなさを感じます。子供向けの“おはなし”で終わってしまわない、作者リンドグレーンの人生へのまなざしが感じられる物語。白いレースのハンカチで出来た、ロマンティックなドレスのイメージと相まって、忘れられない一編です。

 

最後に、もうひとつ仕立て屋さんのお話を。この本は、私が知る限り、この世で最も緻密で美しい絵本です。(ポターと石井桃子の最高の競演!)。

グロースターの仕たて屋 (ピーターラビットの絵本 15)

グロースターの仕たて屋 (ピーターラビットの絵本 15)

 

 物語そのものはクリスマスのお話なので、7月に紹介するには、ちょっとふさわしくないとも言えるのですが、あまりに好きなので、ほんの少しだけ…(いつか、もっとじっくりこの本について、書いてみたいと思っています)。

 

腕は良いけれど、暮らし向きはあまり良くなく、家族は猫一匹という貧相な仕たて屋の男。彼はグロースターの市長から、婚礼の上着と、刺繍のついたチョッキという大きな注文を受け、それに取りかかっている真っ最中です。婚礼の日は、クリスマスの朝。それまでに、猫とねずみにまつわる事件があり、服作りは難航するのですが…。

53ページのチョッキの刺繍が、本当に夢のように美しく(ちょっと、ケイタ マルヤマを彷彿とさせます)、続く54ページのレースのついた紅色の上着も、その生地の質感や、どれほど手をかけて繊細に作られた服か、ということまで伝わってきます。絵の見事さに加えて、物語も文章も、最初から最後に至るまで瑕というものが何も見つからない、大げさでなく、ちょっと神がかった絵本です。

 

さて今回、「好きな服」(=「夢のようにドラマティックな服」)が出てくる本を3冊挙げてみて、共通することがあるのに気づきました。

それは、どの服も、主人公が着るための服ではない、ということ。

たぶん自分で着る服というものには、必ずどこかに(ごくわずかであっても)屈託があります。自己愛やコンプレックス、虚栄心…おしゃれは日常のなかの大いなる楽しみですが、「好きな服」をただ“自分軸”で着るとなると、それがたとえ物語のなかであっても、実はかなり難しいものなのだと思います。

たとえば、村上春樹の短編トニー滝谷レキシントンの幽霊に収録)には、洋服への熱情が限度を超えたために、悲劇をたどる女性が登場しますし、オルコットの若草物語にも、四姉妹の長女メグが、美しいドレスへの欲求と、それに伴う自分の見栄やプライドによって、苦しむ姿が描かれる一編があります。そういう心理描写と併せて、それらの小説に出てくる衣服の描写を読むのも興味深く、また好きなのですが。

レキシントンの幽霊 (文春文庫)

レキシントンの幽霊 (文春文庫)

 

 

若草物語 (福音館文庫 古典童話)

若草物語 (福音館文庫 古典童話)

 

 

はじめにも書きましたが、日常に着る服についての本とは別に、「夢のような服」の出てくる本を読むことが、私はとても好きです。今回に挙げた3冊も、子供の頃から、自分好みの“衣”の描写を読みたくて、繰り返し手に取っていたものばかり。そして、その蓄積は、おそらく私自身の「日々の服」にも何らかの影響を及ぼしているようにも思います。基本はシンプル&ベーシックが好みですが、ディテールに、どこか夢があるものが好きなので。

 

「夢の服」と「日々の服」とは、境界線があるようでいて、やはりどこかでつながっているのだと思います。だからこそ、今回挙げた、物語に登場する“自分以外の誰かが着るために作られた、特別な服”は、ただ純粋に「好きな服」という気持ちで、楽しむことができるのかも…と感じた、今回のお洋服考でありました。

 

梅雨の時季のリネン考。/『リネン屋さんのリネンの本』

 

リネンシーツの幸福を、教えてくれた本。

あらゆるものが湿気を帯びる、日本の梅雨。この時期を、できるだけ快適に過ごすための良き相棒として、私が真っ先に思い浮かべるのが、“リネン”です。

 

梅雨どきに、リネンの何がありがたいかというと、まずはその吸湿性。水分を吸い取る速度は、コットンの約4倍で、繊維の組織に中空構造を持っているからだそうです。加えて、その吸い取った水分を、素早く発散してくれるそう。

この特性が何にいちばん適しているかというと…それはシーツ!!

汗をかいても、すばやく吸い取って発散してくれる、天然のサーモスタットのような機能を備えているのが、リネン生地のシーツなんですね。

ほんと、ひと晩じゅう、ずーっとさらさら。

風呂上がりに、ひんやり滑らかな肌ざわりのリネンシーツに寝転がる心地よさときたら、ちょっと他では味わえない感じです。ほんと、梅雨もそう悪くないと思えるような…。

夏、上質なリネンのシーツがあれば、熱帯夜の寝苦しさから、かなり解放されます。すると冷房の温度をそこまで下げなくてもいいし、結果、省エネと節約に。そして、この特性にはもうひとつ素晴らしい利点があり…つまり、洗濯してもすぐ乾くのです(部屋干しですら!) 。梅雨どきに、これ以上、ありがたい繊維があるでしょうか。

 

と、ここまで絶賛しているわけですが、この“リネン”の魅力を、最初からわかっていたわけではありませんでした。むしろ長年、この手強い素材には、いまひとつ馴染めなかったのです。

「 雑誌やら何やらでよく取り上げられているけど、そこまで良いものなの?」と。

そのお洒落なイメージに惹かれて、とりあえずキッチンクロスもランチョンマットも、タオルも服も靴下も、ひと通り試してはみたものの、「なんかケバケバでしわしわで固い」という印象が拭えず、ずいぶん長い間、リネンに良いイメージは持っていませんでした。唯一、気にいって使ってたのはカフェエプロンくらいで。

 

特に洋服としてのリネンは、非常に苦手でした。これは今も同じで、リネン特有のしわや、ざっくりした質感を格好良く着こなすのは、自分にはタイプ的に難しいと見切りをつけました。なので、服に関してはパジャマと、部屋着もしくはワンマイルウェアまでと決めてます。

似合う人には、ほんとリネンってしっくりきますよね。桐島かれんさんとか。あとイメージ的には、紅の豚のフィオとか、『スプートニクの恋人』のすみれとかが似合いそうです。

 

というわけで、私が愛用するアイテムは、ベッドまわり&キッチンまわりのリネンが主です。そして、それこそが(たとえ私のように、身につける衣類としてのリネンが似合わないタイプであっても)、この素材の素晴らしい特性を享受できると理解したのです。

そして、その手引きとなったのが、この『リネン屋さんのリネンの本』でした(ずいぶん前置きが長くなりましたが…)。

 この本の初出は2006年です。ブックデザインは「L’espace」の縄田智子さん。10年近くを経た今も、古さを感じさせないセンスの良さで、飽かず眺めてしまいます。その美しい紙面のなか、リネンの特性を知り尽くした「リネンバード」のオーナーが、専門店を営む立場から、この素材の魅力をわかりやすく語りかけてくれる構成となっています。

 

今でこそ、ずいぶんポピュラーになったリネンのアイテムですが、その本当の良さを実感するためには、実際に使ってみる行程に加えて、リネンの正しい取扱い方法を知っておくというのが、いちばんの近道だと、今となっては思います

色々とリネン製品に触れてみて、そしてリネンに関する本を読んでみた上で、結論としてたどり着いたのは、「手入れの知識が必要」というのと、「少なくともリネンに関しては、たとえキッチンクロス一枚であっても、ちょっと上質なものを試してみた方が良い」ということでした。私が当初、使ってみた様々なリネンは、雑貨店などで何気なく買ってしまった「中途半端なリネン」だったこともあり、それがすぐにリネンの良さを実感できなかった理由でもあると思います。

もちろん、正しいお手入れの方法を知らず、ほとんど綿と同じように扱っていたというのもダメでしたね。リネンはすごく丈夫な素材(ちなみに耐久性はコットンの約2倍)ですが、たとえば乾燥機は繊維を傷めるので、NGなのです(というか、すぐ乾くので乾燥機自体ほぼ不要ですし)。この本のなかの「リネンを扱うとき、気をつけたいポイント」は、すごく役に立ちました。

 

さて、リネンにも色々とお国柄があります(といっても、製品の表記にあるのは縫製などの最終行程を行った国が書かれていることが多く、「MADE IN BELGIUM」と書かれていても、原料がベルギーのものだとは限らないというのも、この本で知ったのですが…とりあえず、出所がほぼ明らかな生地をさしての話ということで)。

 

たとえば、素朴で可愛らしい印象の東欧のリネン。私が7年ほどヘビーユーズしているカフェエプロンも「リーノ・エ・リーナ」というブランドのリトアニアリネンです。ここのリネンは、ヨーロッパの厳しい品質基準によって管理されたリネン製品に与えられるという「マスターズ オブ リネン」という称号のある、高品質のリネンを使っているそうです。 汚れがついても落ちやすく、毎日の洗濯にもへこたれないというリネンの特性は、エプロンにもぴったり。このエプロンが、リネンのタフさを教えてくれた気がします。

 

また日本にも、山梨にある「R&D.M.Co-」という、糸から作るリネンブランドがあり、ここのリネンアイテムも本当に素敵です。「シャルロット」という名前の、青い小花柄のハンカチを愛用しているのですが、使うたびに嬉しい気持ちになる一枚。日本ならではの職人技を感じさせる丁寧なつくり(手捺染というハンドプリントの仕上げで、縁かがりは手縫い(!)だそう)で、熱狂的なファンがいるというのも、よくうなずけます。

 

そして、「リネンバード」のラインナップの中心ともいえるベルギーリネン。私もその優雅で洗練された美しさに魅了された一人です。特にベルギーリネンのリーディングブランド「リベコ ホーム」のものは、シーツ、キッチンクロス、ハンカチ、部屋着など、どのアイテムをとっても間違いのない使用感で、使うたびに豊かな気分になれます。

上等といっても、キッチンクロスだと1000円以下のものもあり(「コンフィチュール・ミニ」という、名前も可愛らしいクロスです)、ちょっとしたプレゼントにも喜ばれます。この本のなかにも、素敵なクロスが色々と登場して、あれこれと欲しくなってしまいます。

 

また、後半の「作る素材としてのリネン」の項も、手作りをする上で、非常に参考になるページです。生地を糸の太さと織りの目の細かさで、ざっくりと6つに分類してあり、リネンバードに限らず、生地屋さんでの布選びの際に、大いに役立っています。

ピローケースやクッションカバーなど、簡単なものであればチャレンジしやすいですし、自分で作ったリネンの日用品には、よりいっそうの愛着を感じます。キッチンクロスやタオルなどを、私も時々作っています。

 

そういうわけで、この本は私にとって、リネンの入門書のような存在。「リネンを使う傍らに、いつもこの本がある」というような読み方をしている一冊です。この本を入口として、奥の深いリネンの世界へと、足を踏み入れたという感じですね。今も「リネン」と名のつく本を見つけると、とりあえず目を通してしまいます。

 

最後に、リネンというといつも思い浮かべる、素敵な麻の描写を。

「リンバロストの乙女」上巻の中に出てくる、麻のペチコートの描写です。

 

「 鳥のおばさんは身をかがめ、その織物を手で調べてみたが、「まあ、どうでしょう!」と、叫び声を上げた。「手織りの、手で刺繍した、絹のように立派な麻ではありませんか。お金で買われない品よ! 何年このかたこのような品は見たことがないわ。わたしが子供のころ、母がこのような衣装を持っていたけれど、わたしの姉たちがわたしの小さいうちにそれを切り刻んで襟や、ベルトや、ベストだのにしてしまったのよ。この素晴らしい出来栄えをごらんなさい!」

(中略)エルノラは一枚のペチコートを振りひろげた。それは深さが一フィートもある手製の飾りひだがついていた。次にひろげたのは昔ふうのシミーズで、手のこんだ首と袖口の細工はこの上なく見事だった。

 

主人公のエルノラが、高校を卒業するときに母から贈られるペチコートとシミーズ。エルノラの母は、ある事情があって、あたかも娘を憎んでいるように描かれているのですが、この描写を読むと、本当のところではエルノラを愛しているのだというのが、読者に伝わるような仕掛けとなっています。それほど素敵な下着の描き方です。

 

私の手元にあるのは、赤いギンガムチェックの表紙の角川文庫版なのですが、こちらは絶版。現在、河出文庫から出ている方にも、おそらく同じ描写があるかと思います。村岡花子さんが翻訳した本のなかで、個人的にはナンバーワンの小説。素敵な描写が次から次へと出てきて、夢心地にさせてくれる物語です。

リンバロストの乙女 (上巻) (角川文庫)

リンバロストの乙女 (上巻) (角川文庫)

 

 

リンバロストの乙女 上 (河出文庫)

リンバロストの乙女 上 (河出文庫)

 

 リネンという、クラシックな素材への憧憬が増す、私の好きな小説の一節。今年の梅雨も、そしてこれから始まる長くて暑い季節も、“リネンと本と一緒に、愉しむべし”です。

 

暮らしと結びついた、美しい雑誌。/暮しの手帖 第4世紀76号

暮しの手帖 第4世紀76号

暮しの手帖 第4世紀76号

 

 濃密で美しい記事の、向こう側。

今号の『暮しの手帖』。ぱらぱらっと読んで「ただごとじゃない」感じがして驚きました。

暮しの手帖』は、いつも書店かネットでチェックして、気になる記事があれば購入する雑誌のひとつです。

でも、この76号、すみずみまで気合いが入っているというか、一つひとつの記事に、紙面の作り手の思い入れのようなもの、気迫が感じられるような印象を受けたのです。もちろん、『暮しの手帖』は、“雑誌の良心”ともいうべき、毎号ていねいな作りの雑誌なのですが、いつも以上にそういう印象を受けたということで。

 

巻頭の記事は「有元葉子さんのシンプルイタリアン」意外なことに、『暮しの手帖』に有元さんが登場されるのは初めてだそう。

トップの料理がインパクト充分です。「生野菜と塩とオリーブ油」(!)

「野菜を丸ごと皿に盛り、テーブルで各々切っていただきます」と…。イタリア中部の野菜の食べ方だそうなのですが「野菜を丸ごと供することで、口に入れる瞬間までフレッシュな香り、食感が保たれ、驚くほどたくさんの野菜がいただけます」との説明。このメニュー、コロンブスの卵的なメニュウというか、すがすがしく一本とられた感じでした。さっそく真似したいです。

ほかにも「フェンネルとオレンジのサラダ」「サーモンのクロスティー二」「肉巻き夏野菜のトマト煮込み」などなど、美味しそうなレシピが満載。高橋みどりさんのスタイリングもいいですね。有元さんの料理が持つ絵画性が、もっとも引き立つようにビジュアルを作られてるなぁと思いました。写真は日置武晴さん。最強の組み合わせというべきでしょうか。

 

そして、有元さんの料理の双璧ともいえる大きな記事が「かんたんでおしゃれなギャザースカート」でした。

今をときめくアパレルブランド「ヤエカ」の井出恭子さんのデザインで、こちらの方の登場にもびっくりしました。おそらく「暮しの手帖」だからこそ、井出さんは協力されたように思います。他の雑誌では、なかなか実現しない企画ではないかなぁと。

そして、ギャザースカートって、とにかく生地がたっぷり必要なので(この記事のスカートの一つは4m20cm必要!)、つまりそれなりにコストもかかり、そして直線縫いとはいえ手間も時間もかかり、自分で作るのには躊躇するアイテムなのですが…しかし…あまりに素敵な紙面にうっとり。「それでも、作ってみたい!」 と思わせる、魅力充分な記事でした。

 

ほかにも「心に残る、わたしの大切な絵本」の記事も充実の内容で、何度も読み返したいと思い、そして紹介されている絵本もまた、幾つも読みたくなりました。

前述の井出恭子さんが挙げられている『まっくろネリノ』(「となりのトトロ」のまっくろくろすけのモデルとも言われてますね)や、作家の落合恵子さんが選んだルピナスさん』(絵も文章も、とびきり美しいです。掛川恭子さんの訳は本当に素晴らしい!) 、ブルーナうさこちゃんや、ちびくろさんぼ、ちいさいおうち…個人的にも大好きな絵本がたくさん出てきて、選者の方々と、感動を分かち合えたような気持ちになりました。

 

随筆も、じっくり読み込みたいものばかりで、特に登山家の田部井淳子さんの「歩くことが生きること」が、心に深く沈みました。「どんな山を登るときも、一歩一歩です」…人生に裏打ちされた言葉は、その人にしか出せない強さをもって人に届きますね。湯浅誠さんのエッセイも、これと同じ意味合いで、読めて良かったです。ちなみに、74号に掲載されていた脚本家の木皿泉さんの文章も、とても素敵でした。随筆のラインナップも『暮しの手帖』でなければ読めないものが、多々あるように思います。

 

さて、『暮らしの手帖』といえば、ライフスタイル誌の元祖のような存在。

私自身、「雑誌の原体験」はここにあります。まだ小学生だったころ、「一万円のウエディングドレス」を特集した号(ちなみに1986年第3世紀3号)に魅了されたのが始まりでした。花嫁さんが、手作りのウェディングドレスを作るという記事がトップで、真っ白なサテンの上着に、一つひとつパールを縫い付けていく、そのまばゆいイメージを今でもよく覚えています。のちに古本屋で探して手に入れ、今もこの号は、手元に残してあります。

 

暮しの手帖の名物編集長といえば、まず、創刊から30年間、編集長を務めた花森安治

花森安治のデザイン』のあとがき(当時の暮しの手帖社社主の大橋鎮子さんが書かれています)によると、花森氏はつねづね「暮しと結びついた美しさがほんとうの美しさ」ということを言っていたそうです。この言葉を体現するような雑誌が、創刊から67年を迎える今も、きちんと存在することがすごいなあと。そう思えた今号でした。 

花森安治のデザイン

花森安治のデザイン

 

 そして、今号を読んだ後に知ったのですが、もう一人の名物編集長であった松浦弥太郎さんも、前号で編集の現場から離れられたとのこと。つまり、この76号は『暮しの手帖』が、新たな局面を迎えた号だったということでした。

あらためてスタートをきった『暮しの手帖』が、これまでの良さを失わず、そして“『暮しの手帖』らしさを保つ”という、ある種の縛りのなかで、いきいきとした記事を作られたことに、一読者として深い喜びを感じました。

 

また、大橋鎮子さんの『「暮しの手帖」とわたし』のなかでは、シャンソン歌手・随筆家の石井好子さんが、暮しの手帖社についてこう書いています。「初めて行ったときはびっくりしました。会社というより「仕事をしているおうち」、という感じがして。(中略)お台所やテーブルがある広い部屋では、お昼になればご飯を作って食べているし、コックさんに作ってもらっている人もいる。家庭的であたたかくて」と。 

「暮しの手帖」とわたし

「暮しの手帖」とわたし

 

今の編集部が、当時と全く同じというわけにはいかないでしょうが、きっとチームワークという点では、今なお強い結束をもって作られているのではないかなぁと、今号を読んで想像しました。

 

この76号のように、「暮しと結びついた美しさ」と「今の時代をとらえる」という難しい両立を、これからも保っていかれることを願ってやみません。とても美しい、美しい雑誌でした。